SDGsと鎌倉仏教
最近、SDGsという言葉をやたら耳にする。
「持続可能な開発目標」と訳すらしい。私は「環境を守りながら商売しましょう」と勝手にとらえている。
欧米の企業を中心に、このSDGsが推進されているわけだが、私はどうしても違和感を禁じ得ない。
結局は、先進国や大手企業などの利権を持ったものの「ご都合主義」にしか見えない。
確かに環境を守ることは大切だと思う。それは否定しないし、私も正しいと思う環境対策は実施したい。
しかし「SDGs」をいくら唱えようとも、私は、先進国にすみ、いわゆる「普通の生活」をして、多大に環境に影響を与えている。つまりSDGsの経典を読み上げながら、環境に大きな影響を与え、富や快適さを享受しているのではないだろうか。
一方で発展途上国やギリギリの生活をしている人たちにこれを求められるだろうか。環境を守りたいと思いながらも、一日を必死で生きるしかない人々や、国の状況がそれを許さないケースもあるのではないだろうか。
話は変わるが、法然や親鸞に鎌倉新仏教が開いたとき、鎌倉仏教は莫大な利権の中で堕落していたという。
女犯を禁じながら、その代わりに年端のいかない男児の小坊主に性的暴行を加えたり、金で極楽浄土を売ったり私服を肥やしていたらしい。
そんな中、殺生をしたくなくても生きるためにせざるを得ない人たちや、子ども授かった人は成仏できないのかという疑問が湧いてくる。それに真正面から取り組んだのが法然や親鸞などの鎌倉新仏教と呼ばれた人たちだと聞く。
彼らは、どうしたら救われるのかを膨大な経典の中から必死で探し「南無阿弥陀仏(ああ阿弥陀様」という言葉を見出したらしい。この言葉を唱えるだけで人は救われると。
そして、その時代の多くの人々の心の救い、勢力を伸ばしていったらしい。
閑話休題。
翻って現代。SDGsという経典を振りかざし、結局のところ発展途上国の人たちの何倍もの環境破壊をしている私たちは利権にまみれた鎌倉仏教とどうしてもかぶってしまう。
環境にやさしくと言いながら、今の生活をやめることはできない。
また極端な環境活動家のように今の生活自体を否定することもできない。
ただSDGsというものが利権にまみれた富めるものだけにご利益のあるものになってほしくないと痛切に願う。